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高照神社/危機的状態にある文化財

津軽藩の礎を築いた名君である、津軽藩四代目藩主・津軽信牧を祀る神社。岩木山神社にほど近い場所に鎮座されている当神社。弘前のゆるキャラである【たかまる君】のモデルになった甲冑も文化財として保存されている。

基本情報

神社名  : 高照神社
読み方  : たかてるじんじゃ
住所   : 青森県弘前市高岡神馬野87

御朱印  : あり
       神社向いのお店でいただける
建立年  : 正徳元年(1711)に廟所。翌年に本殿建立
創立者  : 五代目藩主・津軽信寿
その他  : 吉川神道の教えに基づいた伽藍配置

歴史

創建自体は不詳で、古来から春日四神を祀る小祠があったと伝わる。元来津軽家は南部家の一族である久慈氏出身とされ、源氏の氏神である八幡神を崇敬していた。津軽家は自らの祖を藤原氏としたため、富士私の氏神・春日神を祀る必要性があったと思われる。
津軽藩四代目藩主である津軽信政は【吉川神道】を信奉していた。自らの葬地を高岡と定め、宝永7年(1710)に弘前城にて死去。五代目藩主である津軽信寿は遺言に従い、神葬。翌年に廟所を、その翌年には本殿などを建立。享保6年(1721)に門前に屋敷割を行い、現在の高岡集落の下を作った。
七代目藩主・津軽信寧が拝殿を、九代目藩主・津軽寧親が随神門や廟所門を整備。
社殿配置は東西に一直線で、【鳥居・随神門・拝殿・幣殿】が並ぶ。廊下を挟み、中門から本殿に至る。さらに西方200メートルに廟所と墓所がある独特な構成。
これらの配置は吉川神道の教えに基づく。
建造物群において吉川神道の教えを再現したものの現存する者は他に例が無い。嘗ては会津藩初代藩主・保科正之の神式の霊廟で【土津神社】も存在していたが、戊辰戦争で社殿が焼失している。
そのため、貴重な文化財として当神社の建造物は全国唯一と言われている。
吉川神道の教えの他に、江戸時代中期の神社建築の特徴を表現していることから、平成18年(2006)に、本殿をはじめとした建物八棟と信牧公墓二基が重要文化財に指定された。

吉川神道とは?

・ 近世初期幕府に仕えた神道家である【吉川惟足】が創唱した神道
・ 神道を儒教的な論理で理解し、国を治める道を説いた
・ 『日本の神道を一人に相伝する』という吉田神道の奥義を受ける
・ 吉田神道の奥義と、強い自負を以って朱子学的理念を独自に加えて所説を形成する
・ 君臣の秩序を重んじることを強調したため、上級武士層に重んじられた
・ 神儒習合神道の一典型といえるが、会津藩主・保科正之をはじめとした、当時の上下関係なく知識層から抵抗なく受け入れられ普及

《津軽藩における吉川神道》
・ 津軽信政をはじめ、多くの大名の支持を得た
・ 信牧公は創始者である【吉川惟足】と二代目【吉川従長】に師事した
・ 信牧公は従長から、とらる号を生前に授けられる
・ 【高照霊社】の霊社号と、【神籬磐境之大事(ひもろぎいわさかのだいじ)】の四重奥義を伝授
・ 信政以降の歴代藩主で吉川神道に入門したのは、五代目藩主・信寿と十代目藩主・信順
・ 藩士の中でも入門者は居た

弘前のゆるキャラとの関係性

・ 弘前のゆるキャラである【たかまる君】
・ 弘前城モチーフの兜を被っている。城ではなく、兜を着用することも…
・ たかまる君の被る兜の、吹返に入っているのは、弘前市の市章でもある【卍】
・ 信牧公着用の兜には【津軽家の家紋】が入っている
・ 兜の角(?)は、信政公着用具足の脇立が元になっている

・ 弘前市内のいたるところにたか丸君は居る。観光的にも一番目にしやすいのは弘前城。兜は弘前城と、津軽初代藩主・津軽為信公の兜からきているから…
・ 至る所でたか丸君を見ることができる。弘前市内でも浸透しているのでしょう
・ 筆者の地元にもゆるキャラ居るらしいが、知らないですね~

津軽信政公について

・ 津軽藩四代目藩主
・ 10歳で家督を継ぐ
・ 吉川神道の他に、山鹿素行に師事し儒学・兵学を治め、奥殿・大星伝を許され、藩の兵学を山中流に統一している
・ 津軽新田の開発・治水工事・山林制度の整備・植林・検地・家臣団の郊外移住による城下町の拡大を行う
・ 養蚕・織物・製糸業・紙漉の発展と育成を行う
・ 藩政確立と発展に尽力し、藩の全盛期を築き上げた
・ 全国から文化人を招聘しており、藩の文化発展にも努めている
・ 対外分野では、寛文9年の蝦夷・シャクシャインの蜂起鎮圧や、天和3年の日光山宮普請役などの功績を挙げている
・ その一方で元禄8年の大飢饉により多数の死者を出している
・ 晩年は困難も多かったが、弘前藩の全盛期を築き上げた名君
・ 江戸時代前期においての名君、弘前藩中興の英守

御祭日

9月5日  : 例祭
9月下旬  : 流鏑馬

御祭神

・ 武甕槌神
・ 天児屋根命
・ 伊波比主神
・ 比売大神
・ 津軽信政命(弘前藩4代藩主)
・ 津軽為信命(同・初代藩主)

御祭神の神格と御利益

【武甕槌神】
・ たけみかづちのかみ
・ 高天原の【武】の象徴
・ 神話『出雲の国譲り』で、出雲の統治権を譲渡させる功績を挙げる
・ 『神武東征』において神剣を遣わし、神武天皇を救う
・ 日本三大軍神の一柱
・ 相撲の祖神
・ 出雲国の平定に困った天照大神は、知恵の神【思金神】に相談し、葦原中国の平定に派遣されたのが武甕槌神
《神格》
雷神、剣神、武神、軍神、地震の神、境界神
《御利益》
武道守護、武道上達、国家鎮護、航海平安、安産守護、病気治癒、厄除開運、延命長寿、縁結び、交通安全、農業守護

【天児屋根命】
・ あめのこやねのみこと
・ 天岩戸神話に登場する神々の一人
・ 祝詞の神様
・ 中臣氏の遠祖
・ 藤原氏の氏神を祀る春日大社の祭神
・ 天岩屋神話において、神官を統括する祭祀長的な立場にあった
・ 言霊信仰のルーツ
《神格》
言霊の神、祝詞の神、出世の神
《御利益》
国家安泰、学業成就、出世開運、子授け、受験・入試合格、歌唱力上達

【伊波比主神】
・ いわぬしのかみ
・ 経津主神(ふつぬしのかみ)
・ 『日本書紀』に登場する、建御雷と共に葦原中国を平定した神様
・ 日本三大軍神の一人
・ 香取神宮の祭神
・ 破邪の剣としての神格を持つ
・ 剣法の源流を産んだ武神
《神格》
剣神、武神、軍神
《御利益》
武芸上達、スポーツ上達、開運招福、諸災厄除け、地震除け、延命長寿、交通安全、夫婦和合、出世、憑物払い、安産、殖産興業、農耕・海上守護

【比売大神】
・ ひめおおかみ
・ 神道における女神
・ 特定の神様の名前ではなく、主祭神の妻や娘、地元に関係の深い女神とも
・ 卑弥呼のルーツとも言われている
《神格》
神道の神
《御利益》
交通安全、金運、芸能上達

【津軽為信命】
・ 津軽藩初代藩主
・ つがるためのぶ
・ 奥州の梟雄
・ 元々は南部氏の一族で、津軽地方を支配していた大浦氏に婿養子として入る
・ 謀略と戦略で戦いに勝利し、勢力を伸ばしていく
・ 元々は南部氏の氏族である石川氏に仕えていたが、自身の妹を側室に差し出し、主君に取り入れられる
・ 讒言でライバルを蹴落とし、主君を毒殺してのし上がっていく
・ ただし南部氏の作話とも言われている
・ 秀吉の小田原征伐時に、秀吉に拝謁を果たし、南部氏の所領の一部を切り取り、津軽氏の所領を安堵される
・ 関ヶ原合戦時は真田氏同様に、東西両軍に軍を派遣している
・ 津軽家は石田三成とも懇意にしており、為信の嫡男津軽信建は三成の次男である重成を匿い、津軽へと逃がしている
・ 石田重成はその後、杉山源吾と名乗る。その子孫は代々津軽家の重心として続いている
・ 三成の娘である辰姫は津軽家二代目藩主である津軽信牧の正室(後に側室)として迎えられ、その子供である信義が三代目の座に就く
・ 為信は高岡の地に、城を築く。これが後の【弘前城】である。完成を見ることなく為信はこの世を去る
・ 弘前城は現存天守として現在も残っている

【津軽信政】
・ つがるのぶまさ
・ 津軽藩四代目藩主
・ 11歳で家督を継ぎ、以後約50年にわたり統治
・ 晩年は飢饉や騒動に巻き込まれるが、弘前の発展に貢献したことから、江戸初期における名君の一人に数えられる
・ 吉川神道を治め、高照神社はその教えに沿った神社で、建立から300年以上も存在している
・ 血筋的に石田三成の娘・辰姫と、二代目藩主信牧の子孫にあたる。脈々と続く石田の血筋

境内の様子

【一の鳥居】
笠木  : 反り増しあり
島木  : あり・反り増しあり
木鼻  : あり
楔   : あり
額束  : あり
その他 : 前後に稚児柱がある
・ 一番の特徴は前後の稚児柱
・ 明神系鳥居の発展形の【両部鳥居】
・ 朱色ではあるが、至る所の色が剥げている
・ 朽ちているように見える

【二の鳥居】
笠木  : 水平
島木  : なし
木鼻  : なし
楔   : なし
額束  : なし
その他 : シンプル
・ シンプルな造りの鳥居
・ 神明系鳥居の【靖国鳥居】に似ている
・ 一の鳥居同様に剥げている箇所もある

【三の鳥居】
笠木  : 反り増しあり
島木  : あり・反り増しあり
木鼻  : あり
楔   : あり
額束  : あり
その他 : 柱の下に藁座がある
・ 柱の下の藁座が大きな特徴
・ 明神系鳥居の発展形の【根巻鳥居】
・ 朱色だが、こちらの鳥居も所々色が剥げている

【神橋】
・ 三の鳥居の前にある
・ 橋の下は水が流れている
・ 川の水は枯れていない
・ 反りは少ないが立派な太鼓橋
・ 季節的に川の周りには紫陽花
・ 朽ちてはいないが、色の剥げている箇所がいくつかある

【狛馬】
・ 神門の前や鳥居の前には狛犬は居ないが、代わりに狛馬が…
・ 躍動感のある馬
・ 鞍には津軽藩の家紋
【ウマ】
・ 神の乗り物で、髪のお言葉を伝える役割がある
・ 嘗ては神に願いを届けるために、生きたウマを捧げていたとか
・ 古来は生きたウマを捧げていたが、平安中期になると木工や土で作られたウマを代わりにしていた
・ それらをさらに簡略化したものが、現在も残る【絵馬】
・ 祈雨・止雨の祈願、五穀豊穣の御利益を持つ

【手水舎】
・ 二本の主柱で造られたシンプルなモノ
・ 花の彫刻
・ 現在は水が枯れている
・ 雪国らしく、普通よりも高い位置
・ 建築年代は不明だが、様式から拝殿と同時期とのこと
・ それを考えると建造物の古さに驚く

【神門】
・ 随神門
・ 左右にいるのは烏帽子帽をかぶり、弓を携えた武人
・ 見た感じ【八脚門】
・ 門の左右から垣が広がっている。ここから向こうが神域・ということだろう
・ 立派な門だが、朱色が所々剥げている
・ 華美な装飾や彫刻はない
・ 綺麗な朱色なら目立つだろう。勿体ない

【御社殿】
階層   : 平屋建て
材質   : 木造
建築様式 : 入母屋造
屋根の特徴: 唐破風・千鳥破風
屋根の材質: こけら葺
宮彫り  : 花の模様・透かし彫刻の様に見える
木鼻   : あり。獅子・ゾウ
・ 屋根の唐破風には拝懸魚
・ 千鳥破風には懸魚のほかに、桁隠も見える
・ 300年もの間鷹岡の地を護ってきたのだろう
・ 宮彫りの装飾はきっと煌びやかだったのだろう。年代を感じさせるように、所々色が飛んでいる
・ 失われてしまうかもしれない状態にあるが、煌びやかさや存在感は失われていないように感じる
・ 拝殿内部はよく整理されている
・ 柱には神楽で使うのであろう面が掲げられていた
・ 現在は失われているが、御社殿の隣には神楽殿もあったという記録が残る

【本殿】
・ 御社殿の後ろにある
・ 御社殿同様に、入母屋造の唐破風・千鳥破風の屋根が見える
・ 千鳥破風の下には懸魚と桁隠も確認できる
・ 御社殿とは違い、本殿の屋根の上には鰹木が確認できる
・ 色剥げもあるが、御社殿よりかは朱色を保っている雰囲気
・ 全ての修復が完了し、鮮やかな朱色の御社殿と本殿を見てみたいものだ

【御霊廟】
・ 本殿の後ろから行くことができる
・ 津軽信政公を祀る
・ 石畳が苔むしているが、厳かな雰囲気を感じられる
・ 神聖かは知らないが、道中40センチ越えの蛇が這っていた
・ 途中で休憩スペースと水飲み場があった


・ 正直な話、境内で一番立派な建物に見えてしまった
・ 厳かな場所だが、草木の管理を徹底してほしいと思った
・ 数年前は垣や門の色が完全に失われていたことを考えると、若干改善はしているのだろう

・ 上が数年前。下が現在

【馬場跡】
・ 津軽地方は知らないが、筆者の地元である南部地方は馬の名産地
・ 元々は南部氏の一氏族だったことを考えると、津軽地方でも馬は育てられていたのだろう
・ 信政公の時代には蝦夷の脅威があったことを考えるに、時代が進んでも馬は大事だったのだろうか?
・ 現在は広い野原のように見える
・ 遺構が見つかったのと、文献から馬場跡ということが分かったとか

御朱印について

・ あり
・ 当神社向いの『安倍由美子酒店』にていただける
・ 初穂料は300円

まとめ・感想

岩木山神社から近い場所に鎮座する。
祀られる神は、津軽藩の礎を築き上げた名君・津軽信政公。日本国内でも数少ない、吉川神道の教えを取り込んだ配置となっている神社。数多くの文化財が残されており、本殿に関しては300年以上も前の物が現存している、文化財の観点からも非常に貴重な神社となっている。
しかし現在の【高照神社】が抱える問題点は、これらの華々しい価値からは程遠いものになっているのも事実であろう。
国・県・市の文化財に指定されている建造物類は、どれもが色が剥げている・所々朽ちているなどの問題点を抱えている。ほんの数年の間でも、それらが改善されずにいるのだから相当危険な状態にあるだろう。
年十年もかけて作り、何百年も残るものを築くのは人間にしかできない。しかし、それらを数年で破壊・放棄するのもまた人間である。後世に残す・残すべき文化財を守るのも人間にしかできないこと。
立派な神社なのだから、これからも残っていって欲しい。こういう歴史価値のあるものを残すためにも、クラウドファンディングなどを活用するのも悪くないのだろうか?

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