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高館義経堂/義経終焉の地

以前記事にした義経寺の伝説では、義経は平泉から逃げて北方へ。所謂義経北方伝説の最終地が、青森の義経寺。こちらの義経堂は、正史の義経の終焉地。アレだ、三国志と演義のようなものかな?

基本情報

施設名  : 高館義経堂
読み方  : たかだちぎけいどう
住所   : 〒029-4102 岩手県西磐井郡平泉町平泉柳御所14

御朱印  : あり
建立年  : 天和3年(1682)
創立者  : 仙台藩主第四代目・伊達綱村
その他  : 源義経終焉の地

歴史

高館は北上川に面した丘陵で、判官館(はんがんだて)とも呼ばれている。現在では、北上川に侵食されて狭くなっている。
この一帯は奥州藤原氏初代清衡公の時代から、要害地とされていた。少年期を過ごし、晩年には源頼朝におわれた源義経は、此処平泉に落ちのびた。
義経は藤原氏三代目秀衡公の庇護下にあり、高館に居館を与えられた。
此処が地元では【判官館】と呼ばれるようになったのか、義経が判官の位にあったことに由来する。
文地5年(1189)に、頼朝の圧迫に耐えかねた秀衡公の子供の泰衡の急襲に逢い、この地において妻子と共に自害したと伝わる。
丘の上のお堂は、天和3年(1682)に、仙台藩主第四代目・伊達綱村公が義経を偲び建立する。堂内には義経公の木造が安置されている。
高館からの羨望は平泉随一つ言われている。

義経と松尾芭蕉

・ 義経堂の境内には松尾芭蕉のとある句碑がある
・ 義経堂から東に秀峰・東稲山が見える
・ 嘗て安倍頼時の時代に桜の木を1万本植えたほどの桜の名所だった
・ 俳聖・松尾芭蕉が門徒・曽良を伴い平泉を訪れた
・ 眼下に広がる夏草が風に揺れ光る様子を眺めた
・ かつてこの地に広がった黄金郷・奥州藤原氏の栄華・この地に散った義経公を偲んだ
・ かの有名な名句を詠む
・ 【夏草や 兵共が 夢の跡】

義経北行伝説

・ 文治5年(1189)に、義経は平泉の地で散ってはいなかった!
・ 高館で自害したのは実は影武者で、密かに義経は平泉を脱出し、八戸→津軽半島⇒北海道へ!
・ 的な伝説が残っている。所謂判官びいき
・ 筆者の他の記事でも見られるが、小田八幡宮や義経寺などがある
・ この説を信じる人も少なからずいるが、水戸藩主徳川光圀公が『大日本史』でも義経生存伝説を記載している
・ 伝説ではあるが、神社や史跡に数多く存在しているのもまた事実
・ 因みに幕末から明治時代に掛けて、義経は北海道からモンゴルに渡り、チンギス・ハンになったといううわさが流布している

・ 『チンギス・ハン=源義経』の北行伝説のその後、蝦夷地からモンゴルへと渡った義経のことを描いた作品

アイヌの神?

・ 蝦夷地へと逃れた義経は、アイヌ民族の神的な存在として祀られている
・ 北行伝説やチンギス・ハン伝説は聞いたことがあるが、『義経=神』とか?
・ 三国志の関羽かな?
・ その伝説が残る場所は、北海道にある義経神社。そのままの名前である
・ アイヌの間では義経が来訪したという伝承が残されている
・ 義経主従は津軽半島から蝦夷地・白神(福島町)に着岸。西海岸を北上し、羊蹄山を超えて平取へ
・ 義経は現地のアイヌに対し、造船・機織り・農耕・狩猟の技術を伝えた
・ アイヌの間では【ハンガンカムイ】と呼ばれた
・ アイヌ伝承の創造神である【オキクルミ】の再来とされた
・ 義経神社の社伝として残っているという
・ 寛政11年に近藤重蔵により神社は創建されている
・ 義経を祭神として祀っているとのこと
・ 純粋に行きたい
・ 〒055-0107 北海道沙流郡平取町本町119−1

境内の様子

【参道】
・ 『丘の上』という言及がある通り、階段の上にある
・ 御堂の前にも、これ以上に急な階段がある
・ 手すりもあり、整備された石段のため登りやすい方
・ 冬場は滑るかも…(冬季期間中は休業中だけど)

【資料館】
・ 御堂に続く道中には資料館がある
・ 義経の系譜などが展示してある
・ 建物前に他参拝者が居たため写真はごめんなさい
・ 資料館内に居られた仁王御像
・ 作者不詳だが、義経夫妻を守っているのだろうか?

【頼三樹三郎詩碑】
・ 幕末の尊王攘夷派の志士・儒学者
・ 頼山陽の第三子
・ 勤王の志堅く、幕府にとがめられたことから、一時的に盛岡に逃れた人物
・ 弘化3年(1846)に平泉を訪れた時に『平泉落日』の感動を詠んだもの
・ 22歳時のもの
・ 安政の大獄でとらえられ、35歳で処刑されている
・ 平泉に義経に心奪われた人物は芭蕉だけではなかったということか?

【松尾芭蕉詩碑】
・ 【夏草や 兵共が 夢の跡】
・ 松尾芭蕉の詩碑
・ 日本史や芭蕉を知らなくても、この詩は有名と思われる
・ 盛者必衰の理を表す。黄金郷と詠われた奥州藤原氏の表現に合うのではないだろうか?

【義経堂】
階層   : 平屋建て
材質   : 木造
建築様式 : 宝形 
屋根の材質: 銅板葺
木鼻   : 雲
・ 御堂からの眼下に広がる平泉
・ 義経公の像が安置され見下ろしている
・ 額には【八幡大明神】
・ 像は武装した義経公
・ 御堂の傍らには【源義経公供養塔】がある
・ 此処から義経公は平泉の姿を見下ろしているのだろう

御朱印について

・ あり
・ 直書きではなく書き置きで対応

まとめ・感想

筆者が以前参拝したのは、青森にあり、義経伝説の残る【義経寺】。
今回お邪魔させていただいたのは、『正史』の義経終焉の地である【義経堂】となる。
仙台藩主の伊達氏が此処に御堂を建立されるまでは無かったのかと思うと、寂しい感じがする。
奥州藤原氏が滅亡する瞬間も、この高台から眺めていたのだろうか?
藤原氏滅亡後に源頼朝公や、それ以降にこの地を治めた藩主たちが中尊寺や毛越寺を保護しようと動いたことも見ていたのだろうか?
盛者必衰の理を表す地ではないだろうか?

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