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【身照寺】宮沢賢治墓所にして悲願建立の寺

基本情報

寺社名 : 遠光山 身照寺
別名  : 身延別院
住所  : 岩手県花巻市石上町389
宗派  : 日蓮宗
御首題 : あり
創立年 : 応永元年(1394)
開創  : 南部実長公の一族
その他 : 南部家由縁
      宮沢賢治の菩提寺

御由緒・歴史

南部実長公は八戸南部氏の開祖とされるが、実際に八戸の根城を拠点とするのは四代目南部師行の時代から。
その治めていた領地は広大で、青森全域・岩手秋田の一部と言うもの。
南北朝時代には師行以降五代に渡り南朝方として尽くす。根城南部氏として栄える。
江戸時代の寛永年間に根城南部氏は遠野へと転封となる。その後は遠野南部氏として残っていく。
身照寺は元々八戸の根城に建立される。八代目の政光公は、実長時代から続く法華信仰を守っていた。
応永元年に身延より日崇師を招き【遠光山 身照寺】を建立。
しかしわずか三年で師が遷化される。そのため身延山九世成就院日学師を迎え入れる。
寛永3年9月25日に、実長公の命日に開堂式を行う。このときに寺号を【円公山身延寺】と改める。
【円公山身延寺】は身延山最古の別院として発展。
数多くの資料が残っていたが、安土桃山の時代に焼失。
 大正・昭和のころに、花巻では法華信仰者が増加。
根城南部氏の三十六代目で出家していた南部日実師が、花巻と縁があった。そのようなこともあり、昭和三年に信者らと共に花巻協会を設立。
おりしも身延山清水坊に奉納されていた日蓮聖人像を寺に奉安。
昭和21年に、日実師が教会から寺院に昇格。
鍛冶により焼失し後は廃寺になっていた【身照寺・身延寺】の寺暦・由来を継承して、【遠光山 身照寺】として再建され今日まで残る。

宮沢賢治と日蓮宗

身照寺には現在、宮沢賢治の眠る寺としても有名。
堂宇建立には賢治の親族も関わり、賢治自身も勧進文を残している。
賢治は法華経信仰に生きた人物。彼の父親は浄土真宗を信仰していた為、生前はよく信仰と改宗の問題を口論していたとのこと。
賢治の死後一度改宗され、宮沢家の菩提寺に納められる。
しかしその後父親が日蓮宗に改宗し、身照寺に宮沢家代々の墓と、賢治の五輪塔を建てて供養している。
【宮沢賢治と聞いて何を思いつくか?】
有名どころで「銀河鉄道の夜」「注文の多い料理店」「雨にも負けず」が頭に浮かぶ。
彼は37歳で短い生涯を終えている。
18歳の時に読んだ『妙法蓮華経』が後の賢治に大きな影響を与える。
詩句や文学作品に与えた影響は大きい。
 彼の詩句で有名な『雨にも負けず』だが、この作品は彼の死後に手帳に書かれたものが発見された。
この手帳には曼荼羅をはじめとした、法華経信仰をうかがわせるものが随所にちりばめられていた。
手帳の扉の裏には法華経の経文が書き記されていたという。

境内の風景

枝垂桜
・ 山梨県の日蓮宗総本山身延山久遠寺にある桜の姉妹とのこと。
・ 南部家によって植えられた桜
・ 春になればきっときれいなのだろう。

宮沢家代々のお墓と宮沢賢治のお墓
・ 流石に写真をのせるのは憚れる。
・ お墓はきれいに整備され、お花も手向けられている。
・ お墓の案内看板の横には、イーハトーブの世界から飛び出したかの如く、フクロウが鎮座されてい   た。

境内への階段下
・ フクロウ。
・ イーハトーブの世界観からか?

掲示板
・ 心に刻み込んで仕事に励みます。

御首題について

御首題有り。
銀河鉄道の夜の憧憬が描かれた御首題帳もあり。
・ 御首題は力強く、雨にも風にも負けないような気概を感じた。
・ 時代が変わっても

散策の感想

宮沢賢治が実際にこの道を歩き、詩句を作っていたのではないかと考えると、宮沢賢治好きな筆者は興奮しっぱなしだった。
御上人様に御首題をお願いすると快く快諾して下さり、案内看板通りに行くと宮沢賢治のお墓があると教えてくださる。
案内看板の横にはフクロウ。賢治の世界観好きになら分かってくれるだろう。

境内の周りは車通りが多かったが、境内は静かだった。お墓周りは綺麗で、宮沢家のお墓以外の墓石等も綺麗に整備されていた。
賢治のお墓の前に行き、ただのファンでしかないが線香を焚き、手を合わせる。
そして心の中で『南無妙法蓮華経』とお題目を唱え、お墓を後にする。

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